川中紀行の
「日本でまだ誰も言っていないこと」2

「カタチの乱用 1」  

日本語の曖昧さへの指摘は何も今に始まったことではない。主語の不在や定義が不明瞭な単語の数々は、昨今の諸事件の会見の際に責任の所在をあやふやにし、真の責任追及から当事者を逃れさせ、最後は“責任者”に仕立てられた人物の引責辞任によって見事な決着を迎えさせる。こうした日本語の曖昧さは不祥事(朝日新聞の連載「探検キーワード」にて南伸坊氏が、この言葉そのものの曖昧さも指摘している)が起きる度に、あのマスコミでさえ揶揄していることだ。
「カタチ」の乱用は、そんな日本語の曖昧さをこれでもかと示してくれる格好の事例である。試しにスポーツの実況中継を注意して聞いていただきたい。特に「F-1」「駅伝」がもの凄い。「1位 ハッキネン、2位シューマッハ、3位クルサードというカタチになっています」なんてのは「カタチ話法」の初歩。つまり、ここで「〜という」の後には「順位 」という名詞が必要だが、その代用を「カタチ」で行っている場合。日本語に対して鈍感になりつつある多くの日本人はこれには気づかない。しかし「ハッキネンがピットインして、シューマッハが抜いたというカタチになっています」「ここでアロウズは周回遅れというカタチになっています」「1周でコンマ6秒接近したカタチになっています」と、出るわ出るわの「カタチ」の連続攻撃はどうだろう。この場合はそれぞれ「状況」という言葉を入れるか、あるいは名詞はなくてよい。「1周でコンマ6秒接近しています」でよいのだ。しかし、F-1の実況ではそうした歯切れのいい中継は皆無で、それこそ1分に1回は当り前の“カタチ大サービス”をしてくれる。これは駅伝の中継でも同様。「旭化成が先頭との距離を1分に縮めているというカタチです」「西脇工業が独走というカタチになっています」「高橋尚子がこれから追い上げようかというカタチです」。分かったよ「旭化成が先頭との距離を1分に縮めています」でいいじゃないか。
では、なぜF-1や駅伝の実況中継に「カタチ」が乱用されるのか。これも一種の責任逃れの意識が働いているのである。F-1では、いかに先頭を走っていようが、いつエンジントラブルでリタイヤするか分からない。駅伝でも、前半を快調に走っていた選手が後半に大ブレーキ、というのがしばしば。つまり、実況そのものが常に仮定の中で行われているという無意識の自信のなさが、「カタチ」の乱用につながっているのである。新明解国語辞典(第3版)によると、語義の第2番目に「物事の表に表れている様子」とある。つまり「いま、表面 的にはこうですが、実は裏側では何が起きつつあるのか分かりませんよ」という“逃げ”を「カタチ」という語に含ませているのである。つまり「カタチ」とは、話者にとって極めて都合のいい表現だと言える。(現在のところ、話し言葉での使用が圧倒的に多い。)あらゆる場面 で責任の所在を不明確化している日本社会、日本文化の象徴がこの「カタチ話法」に表れているのだ。
F-1と駅伝を矢面に立たせてしまったが、実はこの「カタチ話法」は日常会話でも実に煩雑に登場してくる。特に、会議などで相手が自信のない話し方をしている場合など当然のように使われる。大半は「カタチ」を入れなくても意味が通 じるのに「カタチ」を入れることで内容を曖昧にしている場合だ。耳障りな実況の「カタチ話法」は今すぐ止めてほしいが、それが日本人固有の“曖昧なる精神文化”に依って立つものだとするなら仕方ないのかもしれない。
「『1位ハッキネン、2位シューマッハ、3位クルサードというカタチになっています』なんてのは『カタチ話法』の初歩」と述べたが、この初歩がまた別 の意味で日本語の危機の一端を示している。それについては「カタチの乱用2」で述べてみたい。

●交通事故負傷者数の増加にみる危険な現代社会
●市販履歴書の不思議
●NHKと民放の駅伝中継の格差。
●「IT」の恥知らずな乱用」
「カタチの乱用2」 
「マスコミのバランス感覚の欠如」
●「カタチの乱用 1」
「立ち上げるの乱用」 
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