川中紀行の
「日本でまだ誰も言っていないこと」9

反スロー宣言  

「スロー」がとっても大流行

いったん流行ると恥ずかしげもなく同じ情報を垂れ流す日本のマスコミが、いま再び見境なく用いている言葉がある。「スローライフ」あるいは「スローフード」。例えば、ちょっとレトロだったり環境に配慮したような行為を「スローライフな○○」と言い、「スロー」を冠に造語を作りだし人に対する優しさやゆとりを演出する。
「スローライフ」を掲げる静岡県掛川市は「スローハウス(100年・200年長持ちする住宅の生活)」「スローウエア(和服、和紙、葛布)」「スローインダストリー(農林漁業、園芸、市民農園)」「スローエデュケーション(地域を学ぶ生涯学習、子供に声をかけるゆとり、総合的学習、生涯学習まちづくり、大器晩成型教育、学校週5日制、人格形成は一生涯)」と、市の方針を「スロー」というキーワードで展開する。宮城県気仙沼市は3月18日、全国で初めてというスローフードの都市宣言をした。両市の取組みの是非はともかく、雑誌を見ていても「スロー」を使ったこの種の表現の乱れが気になる。

スローフードへのささやかな苦言

まず私は、スローフードなる言葉に胡散臭さを感じている。もちろんイタリアを起源とするこの運動の成り立ちも理解したうえで、豊かな食につながるこのスローフードなる思想と、最終的には生活水準の低下に帰結する「スローライフ」という概念との矛盾も感じている。
(1)消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、酒を守る。(2)質のよい素材を提供する小生産者を守る。(3) 子供たちを含め、消費者に味の教育を進める。
これらの理念(「日本スローフード協会」ホームページ
http://www.slowfood.gr.jp/より)に基づいて展開されているNPOの活動はそれなりの評価を与えてよいと思う。ただ私が懸念しているのは、こうした活動と単なるグルメとの違いが曖昧である点と、スローフードこそがスローライフの根幹と誤解されないかという点、そして家庭料理の訴求が極端に不足しているという3つの点である。「日本スローフード協会」のトップページにある「私たちは新たな食と食文化の情報発信の為にみなさんの地域の食材や酒についての情報を集めています。又、食の場(レストラン、和食屋など)の情報も集めています。あなたの街のおいしい食材・おいしい店などの情報をお送り下さい。」というメッセージの軽薄な印象も、私の懸念を加速させる。食通・グルメ指向を前面に押し立てたこの種のメッセージの送り方が、果たして「スロー」という言葉が含む一般的な意味にふさわしいか疑問を抱くのである。また、現代社会では悲しいかなお金のかかる(1)と(2)の理念は、豊かな消費を追い続けてきた戦後社会を批判し「スローダウンしようよ」と語りかけるスローライフの思想に反しているとも思っている。
確かにナショナルブランドが大量生産で送り出す画一的な食品に対し地場の名産品や地酒の伝統を守っていくという姿勢は、ある意味「スロー」の概念を含むが、だとすれば「食の場(レストラン、和食屋など)の情報」という文言には一言、「無農薬で日本産の食材を使用している」という条件をつけてよいはずだ。私は「URL TOAY http://www.so-net.ne.jp/URL-TODAY/」の03.12.11版で「伝統的な食材や各地の郷土料理を体験したり、日本酒を酒米から研究し調査するといったことに挑戦」という日本スローフード協会の文言を批判した。「ホームページの趣旨をよく理解したうえで発言してほしい」とでも言われるかもしれないが、仮にそれが誤解だとしても表現は改めるべきである。たとえば「伝統的な食材や各地の郷土料理を体験」という書き方からは「郷土料理を自ら調理する」意味合いが伝わってこない。イベントツアーでも開こうかという感覚である。協会のホームページでは「本来持っている日本の食材や調理方法、お酒や調味料、そして食事そのものが『スローフード』であるといえるものばかりなのです。」という当たり前のメッセージも送っている。正にスローな家庭料理の楽しさにつながるこうした立派な理念をお持ちなら、誤解を与える表現は慎むべきである。
しかし、悲しいかなスローフードはお金がかかる。国産でしかも安心できる食材を買うには、ある程度価格には目をつぶらなければならないからだ。これは“4人家族で夕食¥600”などと言っているデフレ下の日本の家庭事情とは、はっきりと異なる。さらに言えば、無農薬・国産材料を謳うような一定レストランの食事を楽しむのは独身男女にはできても、ベア・昇給共に抑えられしかもローンを抱える一般家庭には難しい。
したがって私は、スローフードの立場で論じられる「スロー」とは、スローライフの意味する「スロー」と本質的に異なっていると思う。書き手は、本来はこの点をよく理解したうえで書くべきであるし、安易に「スローフード」という言葉を使ってほしくない。いくつかの理念に納得する内容もあるが、スローフードの言う「スロー」とは結局は“裕福な人間のゆとり”とでも解釈するしかないと私は思わずにいられない。ソトコト(02.2月号)で、国際スローフード協会副会長のジャコモ・モヨーリ氏は、スローフードを実践するスローフーダー(と言うらしい)と単なる美食家との違いを次のように述べている。
「お皿の上に載っているものだけを味わって、どうのこうのというグルメを僕らは目指していない。僕らスローフーダーは、あくまでも、お皿の外側にあるものを理解している食通でありたいんだ。誰が、どこで、どんなふうにして作ったものか、作られた場所の風景はどんなものか、それを知ろうとすることが大切だと思うんだ。」
この方には、自らスーパーに足を運び、1本の人参でも産地を吟味して選び、丁寧に下拵えをし、家族に振る舞うという思想は皆無のようだ。こんな人間をグルメと言わずして何と言う。もちろん「お皿の外側にあるもの」は大切だと思う。しかしそれはレストランに並べられる皿だけではないはずだ。

スローライフって、どうしたらできるの?


ともかく意味不明なスローフード論者が多いが、これはスローライフにしても同様である。
例えば辻信一氏が著した評判の「スロー・イズ・ビューティフル」を読んだところで数多くの矛盾とぶつかる。それは、結局は「現在の豊かな生活水準を低下させることができるか?」という疑問に全て帰結するのである。
本書は「金を減らしてでもゆったりとした人間らしい時間を取り戻そう」と語るが、個人がこの企業社会の中でゆったりと仕事をする方法論を語っていない。また「スローなビジネスは可能だ」と題しながら中身は単なる環境ビジネスを取り上げているのみだ(環境ビジネスとてスピードを競うITに支えられている)。現代社会への反旗を気取って威勢のいいことばかり書かれているが、右肩上がりを目指して切磋琢磨し、常に昨日より早いスピードが要求されるビジネス社会の中で、では現実にどう生きていくのかという方法論を何も示していない。ならば自給自足こそ真のスローライフだと思うが、自給自足とどのように取り組むかについても言及はない。
バブル経済崩壊以降、幾度となく景気回復がささやかれたが一般庶民の印象としては不況の印象が強い。しかし、ここ10年のGDPのトレンドを追うと横這いか、わずかだが上昇している。常勝企業の経常利益が少しでも下がると、やれ中国に市場を奪われたのどうのと騒ぐが「このままでよい」と開き直れば、そんな企業に属する庶民の暮らしはそれほど疲弊してはいない。前年比が下がった時に過剰に問題視されるのは、“右肩上がりの経済”に縛られているからである。所得も、エネルギーも、現状の豊かさを維持できればよいという思想に社会全体が変われば、かなりの部分が解決されるはずだ。
しかし、事はそんなに容易ではない。庶民は、将来の所得が上昇するという前提でローン計画を立てるし、便利に慣らされた私たちはこれからも新しい家電製品を買い続けるであろう。だから、省エネがなかなか進まない。私は「現状の豊かさを維持」と書いたが、仮にそれを受け入れたとしても、現状維持の日本経済を支えていくことすら「スロー」なビジネススピードでは不可能である。 掛川市は「そこで21世紀は、大量生産・大量消費の急ぐ社会から、ものと心を大切に、急がない社会に移行し、『ゆっくり、ゆったり、ゆたかな心で』という『スローライフ』をキーワードにしたいと考えました。人間は、平均寿命80歳とすると、時間にして70万800時間、生きています。このうち勤務労働時間は、40数年働いたとして7万時間、あとの63万時間は、睡眠の23万時間のほかに食事や勉強や余暇で過ごします。いままでは、7万時間の労働を中心に、会社人間的に生活してきましたが、これからは63万時間を、いろいろなスロー主義で暮らし、真の安心と幸せを得ていきたいのです。」と、そのスローライフ哲学を発信しており、市長自身も“ビジネススピードをスローにするのではなく、ビジネス以外の時間をスローに生きる”という趣旨の意見を述べている。
しかし、そもそもこの主張が曖昧だ。完全週休2日で祝祭日はもちろん休み、夏季5日・冬季7日休暇のある当社の2003年度の営業日は243日。40数年で労働に当てる時間を7万時間と浜松市は言うが、仮に40年として243日を掛けると9720日。7万時間を単純にこの日数で割ると7.2時間である。つまり、仕事を持つ世の中の人間すべてに残業なしで定時が来たら帰宅せよと言っているようなものだ。もちろん、通勤時間に資料を読んだり資格試験の勉強をしたりもスローな生き方ではないということであろう。仕事は定時に終わらせ、あとはサッと自由時間に切り換えスローに生きよ、ということだと判断する。そんなことは、浜松市の役人にはできても、世の多くの勤め人にはできないし、何かを作る類の仕事(広告・書籍・芸能・芸術・演劇・工芸等)をしている人間に至っては100%不可能だ。
私は何も仕事一途の人生だけを認めるなどと主張しているわけではない。しかし、世の多くの人々は、定時以外の時間を使わなくては現在の状況を維持することすらできないのだ。それだけ必死なのである。もちろん企業もだ。仮に「私は定時の中でしか仕事をしない」と宣言すれば、即座にリストラの対象になるであろう。つまり、スローライフはそうした厳しい現実と直面する宿命を必然的に負うのである。「それでもいい」という生き方はもちろんある。自給自足の暮らしか、生活レベルを極端に落としたライフスタイルの実践である。「半農半X」すなわち「自給農を中心にした永続可能な小さな暮らしを中心に、自分らしい生き方を模索する、私たちの考える21世紀のライフスタイル(半農半Xホームページ http://www.geocities.co.jp/NatureLand/3673/Profile.htm より)」という生き方があることも私は知っている。現代文明や日本の資本主義が生み出す恩恵に100%頼っていないのであれば実に立派なライフスタイルだと思う。しかし、前述したようにスローライフを唱える人間が、こうした現実の生き方に言及することはないのである。
単に余暇をゆっくりとスローに過ごす方法なら、堂々と「余暇の素敵な楽しみ方」と言ってメッセージしてもらいたい。そこには、園芸だって、散歩だって、写真撮影だってあるだろう。スローライフをそんな風に勘違いしてメッセージしているサイトが実際に数多くある。しかし、古来から余暇とは多かれ少なかれ「スロー」を基本としていたはずだ。つまり、スピードと効率優先を価値観の基本に置いた時間(多くは仕事に関わる)とは別に、無駄ではあるけれども本人にとってはかけがえのない時間である。私が見る限り、生活レベルの見直しに言及しないスローライフ論は、すべて「余暇の素敵な楽しみ方」に過ぎない。その中には、あるいは地球環境や生涯学習に配慮した新たな「余暇」の提案があるかもしれない。もちろん、それはそれで貴重な視点だ。しかし、それもあくまで「余暇の素敵な楽しみ方」の一視点でしかない。単に余暇を語っているにすぎない提案を、あたかもこれまでのライフスタイルそのものへの反論のごとく居丈高に語ってもらっては困る。
文明は確かにさまざまな面で分岐点に来ている。原子力発電所の問題もしかりだ。しかし、豊かな現代社会をどこまで制限し、我々の未来をどこへ導くべきかの方向性は、単に「スローに生きようよ」なんて甘ったるい提案からは導くことはできない。「世界中の企業が全て赤字になっても、昭和30年代の暮らしに戻れればよい。」そう思う人間はある程度存在するだろうが、そうした理念をもとに現代社会を再構築することは極めて難しい。私も含め、多くの人間は悩んでいるのだ。毎日の自らの24時間に立脚したうえで未来の生活水準の変動を覚悟し、しかも現代の資本主義に明確な方向性を与え得る思想。いまのスローライフにそれを見出すことはできないのは当たり前のことである。
(2003年3月28日)


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