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広告批評の限界について
マンスリー広告批評〈00.4月〉
雑誌「広告批評」は好きな雑誌で、特に時 々村上春樹を特集してくれるところなど感謝しているのだが、本誌も含め少なくとも業界紙・誌、もしくは一般 雑誌で広告を批評するのには自ずと限界が存在する。つまり、広告とはそもそも広告主ありきのもので、広告の欠点がその広告主の側に由来する場合、正面 切っての批判ができないからである。 広告効果測定への期待は高まるばかりだが、結局はどれも追跡調査でしかなく、広告を見た時点でのリアルな感想は得られない。ましてや店頭を含め複合的な購 買動機を調査で解明することは困難を極める。しかも、業界受けのいい広告を発信している企業の業績が悪いのは日常茶飯事で、販促効果 との相関性から広告を批評することはできないから、結局は表現レベルでの批評に止まるのである。それはそれでよい。少なくとも楽屋落ちで終わって罪はない のだから。 しかし、広告がひとたび社会性を含んだ場合、はっきりとその文脈について検証してほしいのだ。それが一企業の文化から発信される一般 的な自社(商品)PRの広告物なら暗黙の内に理解しよう。存在自体が環境破壊そのものの企業が辻褄の合わぬ 環境保護貢献を言おうと何を言おうと。そこに客観的な批評眼を持ち込めとは言わない。広告は時にそうした空しい一面 を避けることができないし、当社とて同業である。しかし、次のように堂々と社会性を含んだアピールに対し、批評の刃が鈍るのは情けない思いがする。  
昨年、広告業界で内輪受けしたのが、「ニッポンをほめよう」をキャッチフレーズとする「日本を元気にする」キャンペーンだ。第一回目の吉田茂のビジュア ル、OK、インパクトある。「こんな写 真、お前、見つけられてきたか?」なんて言われたら、「はい」とは、とても言えない。問題はこのコピーの中身である。もちろん、出来上がったコピーを批判 することの容易さは百も承知だ。しかし、私は表現技術の品質を批判するものではない。そしてこの60社連合広告のコピーに、どれほどクライアントからの修 正が加えられたかは想像するに余りある。その辺の裏事情を知らない私が、担当のコピーライターに一方的な批判をする資格などあるはずがない。しかし、しか しだ。私はこの広告を業界紙・誌が褒め、こともあろうにTCCの「広告年鑑」に掲載されるなんて事態を、どうしても見過ごすわけにはいかない。この広告は 「分かるよなぁ、苦労しただろうなぁ、作るの」なんて同情の目だけを向けて、葬り去るべき代物である。広告としての善し悪しではない。私はあくまでその客 観的な社会性の稚拙さを指摘しているのだ。 まず「褒めたからといって、日本の何が変わる?」なんて、居酒屋談義レベルの皮肉は的外れと断った上で述べさせていただく。そして、この私の意見が決して コピーライターの技術論ではなく、あくまでクライアントありきの広告の限界に依拠している点を改めて強調してから述べさせていただく。
 
(1)他企業の活動を曖昧化することによる文脈上の矛盾  
本広告の“ほめるべきもの”の一番目は「不景気の中だって、新しいアイデアで突破口をつくろうとしている人がいる」だ。この場合の「人」が断定を避けて使 われているのは痛いほど分かる。メインキャッチと戦後の政界を代表する吉田茂のビジュアルからして、地方に数多い優良企業や大企業の中でも積極的に構造改 革をしヒット商品を出している大企業のトップあるいは技術者たちを連想させる。しかし本広告では業種すら具体的にしない。もちろん、すべてがこの情報レベ ルで統一されていれば文章に破綻はない。しかし、次の「そのクリエイティブ、なかなかやるもんだ」として挙げられているのが「日本発のアニメ、ゲーム、映 画」となると話は違ってくる。(さらに三番目にほめている内容に至っては、焦点が余りにもバラバラで見苦しい)協賛各社にゲーム業界や映画業界からの参加 がないのは当然だが、「不景気の中だって、新しいアイデアで突破口をつくろうとしている人」がなぜ漠然とした「人」なのに、「なかなかやる」方の“クリエ イティブ”が具体的に述べられているのか。理由はもちろん、少しでも「人」の業績が具体的になれば協賛各社の活動とどこかで摩擦が生じるからである。この 種の曖昧化は広告文には付き物である。だから事情はよく分かる。しかし自由な表現が許される他分野の文章なら、こんな矛盾を生む曖昧な内容では書かない。 連合広告という意匠を借りたとしても、本広告が正義派ぶって社会的なアピールを発信したにしては、この文脈は隙があり甘すぎはしないか。もしもこれが広告 でなければ徹底的な論壇の糾弾に晒されよう。私が言いたいのはその点である。
 
(2)協賛企業のコンセンサスが得られないための文章内容の欠陥
本広告は、単なる主観に過ぎない「近頃の若いもんのセンス」を三番目に挙げて褒めておきながら、「日本本来の伝統」に一切ふれていない。つまり、内容の質 が極端にアンバランスなのだ。いま日本の行き先を考える時、必ずと言ってよいほど話題にされるのが「日本本来の伝統」の見直しであろう。私は、伝統回帰を 盲目的に支持するものではない。しかし、日本社会独特の近隣集団の機能や、世代間の文化伝達、あるいは勤勉さや緻密さなど日本人の専売特許と言われた文化 や資質が等閑にされたことで、どれほどの社会問題が発生しているだろうか。某企業のお粗末な品質管理がどれほど“ニッポン”の威信を失墜させたか。もう一 度褒めるべき中に、かつて日本の代名詞であった「日本本来の伝統」の数々をなぜ入れない? 「あくまで将来につながる新しい日本のイメージから考えまし た」などという下手な言い訳などは聞きたくはない。もしもそうであるならば、そう明言してから論を進めるのが正しい作法であろう。 しかし、伝統の行き着く先には現在の日本企業が捨て去りつつある「終身雇用」などの企業文化もある。つまり「日本本来の伝統」は企業の社会的責任を考える 上で至極微妙な問題なのだ。終身雇用の崩壊が労働者のマインドを低下させているという声が実際にあり、勝手に実力主義を標榜しながら転職市場が明らかにア メリカより立ち後れている日本にあって、手放しに「日本本来の伝統」礼賛とはいかないのだ。無論、旧来の企業文化をよしとする大企業もある。しかし、この 60社の連合広告で全社のコンセンサスを得るのは不可能に近い。この点が、私の考える「クライアントありきの広告の限界」の第二である。 理念も目的も違う60の企業が「ニッポンをほめよう」などという、「朝まで生テレビ」なら朝まで堂々巡りの微妙な問題を正々堂々と社会アピールすることの 浅はかさ。私は、これは露出してはいけなかった広告だと思う。作る前から矛盾が明らかだからだ。しかし、広告だからこその限界を如実に表した本広告を、批 判するメディアは少なくともこの業界にはない。そもそも広告ジャーナリズムなど存在不可能なのだ。業界紙・誌が依って立つ業界に迎合するのは世の常だが、 批判すべきものは批判するだろう。翻って、広告業界紙・誌に批判はタブーだ。批評と呼べる記事すら、極端に少ない。「広告年鑑」の掲載に至っては、 「TCC会員ではない公式的には二流のコピーライターである私に、業界内の常識を分かる能力はない」とだけ言っておこう。その後展開された「ニッポンを元 気にする」キャンペーンの著名人たちのメッセージが無理矢理に日本をほめている点も、虚ろに映るばかりだ。(矢沢永吉なんて、ほとんど“戦犯さがしに明け くれる”側じゃないか)でも大丈夫。広告なんて世間は真剣に見ていないから、内容などどこからも批判されない。それどころか、本広告への賞賛の声が寄せら れたことも、もちろん私は知っている。しかし、私は本広告を広告としてでなく、あくまで世の中に流通 している一般的な文章と等価にとらえ、批判しているのだ。こんな文章、社会批評として見た場合、正に“子ども扱い”されるレベルではないか。
「私の子供時代は、四国の田舎町には、電話のある家は少なく、ラジオは金持ちの家にしかなく、扇風機の廻る家も数えるほどであった。しかし、井戸水はおい しく、かまどで炊いた御飯はお菜がいらないほど美味で、つつましい食事で成人病はほとんどなかった。学校は楽しく、テレビもない代わり、家庭には団欒と笑 い声があった。先生は頼もしく、医者は親切で、僧侶は博学で清らかだった」(瀬戸内寂聴・基調講演/2000年1日6日 読売新聞夕刊より抜粋)講演の話 し言葉がそのまま詩になったような、このように素晴らしい事例を私は他に知らない。 ここに私の言いたいことはすべて記されている。しかし 私は別に物質文明を広告で批判せよとは言わない。それはある意味で、広告ではない。ただかつて存在し、いまもなお少数の日本人が持ち続ける素晴らしい「日 本本来の伝統」、良き時代の真っ当な精神文化に目をつぶって「ニッポンをほめよう」をコンセプトに広告したことに、私は限りない疑問と失望を抱くのであ る。本論の内容について、私はもちろんリサーチなどしていない。おそらく多くの反論はあろう。しかし、少なくとも本広告は、広告という存在の限界と、その 一般 社会的なレベルの低さを考える際の格好の題材であった。この貴重な機会を見逃し、何もできなかった各業界紙・誌には既に語る言葉はない。
本広告批評を、「重箱の隅をつつく」式の悪意のある文章と思われた方がいらっしゃるだろうか。しかし、それは絶対に違うと断言する。私も同じ広告を作って いる。同じ自己矛盾を抱えて仕事をしているのだ。しかし、一つのボディーコピーを書く時、文脈の矛盾には精一杯の神経を使っているし、当社のスタッフにも 指導している。そして、この「ニッポンをほめよう」キャンペーンを遙かに下回る広告予算の仕事でさえ、クライアントの側から文脈の細かな矛盾を指摘される ことは、未熟な私にとって実際にあることなのだ。真摯なクライアントは、一つの広告文にもそれだけきめ細かな神経を配っている。今回取り上げた広告、い や、この広告という意匠を借りた極めて低レベルの“社会アピール”にはそれが感じられなかっただけである。広告の文章、即ちコピーは、本当には真剣に語ら れていない。これでよいと、私は思いたくない。
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